「ふじみ野今昔」のページ
こんなページが有りますので、紹介致します。
http://www008.upp.so-net.ne.jp/tojo/konjaku-27.html
これなのですが、ふじみ野駅開業前の1992年頃の写真(一部)が掲載されていますね。私は、この頃も東武東上線で通勤していましたが、ふじみ野への転居を計画し始めた頃で、「わくわく感」が現在とはかなり異なっていました。
本当に何も無かった場所で、畑の中に突如として出現した「リズムタワー」の様子なども、良くわかると思います。
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コメント
三十年前頃は鶴瀬駅から上福岡駅まで東上線沿いの風景は南はセイコーモーター辺りから駒林、今は駒西辺り迄は荒涼とした畑と境木や細い曲がりクネッタ農道しかありませんでした。駅の位置する場所も当初の計画位置からずれたため、
思惑が外れた人や僅かな農地所有者がビルのオーナーになったりして、悲喜こもごもでしたよ。
川越街道が遠くから見えました。春一番では空が赤く見えたものです。
投稿: むさしの | 2009年7月 2日 (木) 20時32分
むさしの様、こんにちは。
「春一番では空が赤く見えた」というのは、凄かったのですね。それは、関東ロームの赤土が強風で飛散した物だったのでしょうか。関東ロームは、古くは富士山や箱根の噴火に由来する物で、下記のような所に簡単な解説が出ていました。
http://www.juken-net.com/magajin/maga/99.htm
ふじみ野の名前と関東ロームの由来などが、一連の流れとして見えてきました。関東地方は、やはり富士山との縁が深いと思います。高層建築物が無かった昔であれば、どこからでも富士山は見えましたから。富士塚という物も、関東一円に有りますし。
投稿: 竹内@ふじみ野.東上 | 2009年7月 3日 (金) 00時24分
再度、こんにちは。
ふじみ野駅の位置決定の経緯は、リンクを張ってある「ふじみ野資料室」のサイトや自分の独自研究である程度は理解できたのですが、なかなか厄介な事であったようですね。その時の「しこり」が、現在まで影響していない事を願っています。その後の「合併失敗騒ぎ」「ふじみ野の地名騒ぎ」までありましたから、もう大変な訳です。当地の大問題だろうと私は思っています。子孫の代まで争うのは、嫌ですが。
「リズム」なのですが、今から考えますと駅の位置変更が確定した時点であの位置での商業施設の開業を中止し、駅前に商業施設を集約した方が良かったのかも知れません。しかし、土地区画整理組合が別の所になっていて一体性が有りませんし、そのような一本化調整は不可能だったのであろうと私は推察をしています。
現在の世界経済情勢では、ふじみ野地域に商業地域が3ケ所も4ケ所も分散して立地する余裕は無いであろうと私は考えています。それでなくても、東京23区など他地域からのパワーに圧倒されておりますから。副都心線の開業などで、他地域のパワーにますます磨きがかかったというのが、私の認識です。
投稿: 竹内@ふじみ野.東上 | 2009年7月 3日 (金) 06時49分