外国人入植地 (古代の話)
「関八州」の話がコメントの中で出ていますので、あらためて地図を調べました。「郡」単位まで出ている地図を発見しました。この「郡」というのは、現代まで継承されている由緒ある地名になりますね。当地付近は「入間郡」に属しており、現在でも「入間郡三芳町」が存在していると思います。
http://www.mars.dti.ne.jp/opaku/hakken/02/nmapx_gun.html
http://www2.harimaya.com/sengoku/map/bk_kan8.html
外国人入植地と思われる「郡」の名前も有ると思います。「高麗郡」とか「新座郡」(別名が新羅郡)だと思うのですが、朝鮮半島との関係を思わせる名前になっていると思います。最近ですが「韓流ブーム」というのがあり、高麗神社とかには観光客が増加しているという話を聞きます。(何が地元に変化をもたらすか、簡単には予測できないですね。)
現代の該当地なのですが、日本人(大和民族)との混血が進んだせいか、外国人入植地の痕跡が殆ど無いように思います。史跡などを注意深く観察しないと、わからないですね。物凄く長い年数が経過した、という事なのだと思います。 どうしてこの地、しかも2ケ所に分散して入植させたのかは良くわからないのですが、外国人管理であるとか、開墾事業の都合などでしょうか。
現代社会では、やはり交通網整備(鉄道や道路)による影響が大きく、市街地や行政区分はそれに従って展開されていると思います。入間郡全体の一体的な関係は、薄れてしまっていますね。首都圏では人口集積度が高いので、通勤・通学の便まで考えますと「鉄道」が市街地発展の基礎になっていると思います。(鉄道路線から離れた場所では、市街化が進まないという状況。)
たまには、古代の歴史から「ふじみ野の未来」の変化について想像を働かせてみるのも興味深いと思っております。
話は全くそれるのですが、仮に地下から「東武東上線の電車が丸ごと発掘された」としますと、未来の考古学者はどのように思いを巡らせるでしょうか。現代社会の私達が過去を見つめる時も、同じような問題が有るのかも知れませんね。現代の電車はアルミ車体なので、腐食しないで数1,000年間といった長期間残る可能性も有ると思っております。謎の金属製の箱であって用途が全く不明、吊革のプラスチック部分など、理解に苦しむといった事かも知れないです。現代の「洋紙」という物は経年劣化してボロボロになるので、資料があまり残らない可能性もありますし、コンピュータ上のデジタルデータも超長期保存が可能なのか怪しいです。岩に彫られた文字とかは、数1,000年間も持つ事が実証されていると思うのですが、現代社会の「記録媒体」というのはかなり脆弱かも知れないです。
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コメント
竹内様

こんばんは!
自分自身歴史に感心を寄せた時期もありましたが
日本文化とか大和民族とか単一民族だとか具体的に説明出来ません。
縄文人が在来系で弥生人が渡来系はわかりますけど、ただ、シルクロードの終着点の日本にも古代中近東ペルシャ辺りからの文化や人間までも日本に来ている事です。密教が関係しているようですが。
中国や朝鮮半島から直接伝わった文化は日本文化の基礎だと解釈します。日高市にある寺は亡命した高句麗の王様を祭ってますけど。地元には高麗の氏を名乗る家系は今でもあります。古代から関東の新座や日高市の田舎にです。毛呂山や越生はアイヌ言語だと聞いています。
戦国時代に敵の首を打ち捕るのは南方民族の首狩りの習慣みたいで明治時代の絵はがきに台湾の某民族の写真があります。日本人には首狩族の習慣があった事です。
投稿: むさしの | 2009年7月14日 (火) 22時47分
むさしの様、こんにちは。
日本の中でも、良く観察しますと驚くほど民族の多様性が有るのですね。これだけ国際交流が盛んな国なのですから、将来の国際交流もきっとうまく行くであろうと私は確信しました。
私などは、元が神戸出身なので、周囲をいくら外国人に囲まれても驚いたりはしないです。
投稿: 竹内@ふじみ野.東上 | 2009年7月15日 (水) 00時00分